昭和40年05月07日 夜の御理解



 何の稽古でも同じだと思うんですけれども、段々稽古をしてまいりますと、色々難しい所に行き詰るもんです。分からなくなる分からなくなるそこを私は、本気で求めるという事が、求道心だと思うんですね。もう簡単に分かったら私はね、信心の楽しみと言ったものはないと。「信心は見やすいものじゃ」と、見やすいものじゃがと、こう仰るけれども、見やすいと言う事は、そういう意味で私は、そういう意味ではないと。
 やっぱり信心の道でも極めていきよると難しゅうなる、分からんごとなってくる。その分からんごつなって来る所を求めるのが求道心。ね、道を求める心と言う事です。もう限りなくその道を求めていくと。だからこそ限りなくおかげがそれに付いてくる。ですから楽しい事なのである。もう私はこの頃信心が分からんごとなったと言う様な事で、(笑い)だから矢張りそれは自分よりも先輩というか、矢張りまた「負うた子に教えられ」てな事もありますけれども、とにかくあの求め抜いておくと言う事です。ね。
 又求めると言う事ですそして与えられる場合もある、与えられない場合もあるけれども、求めに求め抜いておる時にそれを「求めよさらば与えられん」と必ず与えられる。それが難しい事で有れば難しい事であればあるほど、心の中に開けてくるものがある。その開けてくると言う事をいうなら、おかげの道が開けてくるのですからねえ、お道の信心では。だから矢張り求道しなければいけません。道を求めなければいけません。
 きょう昼でしたいや午前中でした。ある方がこういうお届けをされるんですね。福岡の方なんです。ここの御造営が始まりましてから、先月から自分のある商売をです「この商品が売れたら、これを全部がん元もとね元値ちゆうものは、僅かなもの自分で作るものだからだからもうそれをそのまま、御造営費に当てよう」とこう思うたそうです。所がですね、もうその思うた事を境から全然その品物が売れなくなった。私は分からんちゅうわけなんです。(笑い)これがあるんですねえ。
 皆さんはどうですか、分かるですか。例えばとてもそれは神様が喜んで下さるような感じがする。また喜んで下さってるに違いがない、喜んでおって下さるからこそ、いわばそれがストップしたんです。もうその辺にきたら皆さん、愈々分からなくなってくるんじゃないでしょうか。なしじゃろうかと、ね。これは私があの親教会の40年の記念祭のときでした。まだあのう外地から帰りましたその翌年でした。
 40年の記念祭でしたが。ね、とにかく私が丁度一年前に委員会が開かれました。一年前にその事の計画を立てられた。あの時分はねえちょっと20約20年前です。記念祭がですね一万円で出けたんですから、そらそうでしょう私共が外地から引き上げて来る時に、一人で持って帰れるのが千円でしたから。ね、今から考えますと馬鹿のような金額ですけれども、やはり大変な金額であったと思うんですねえ。
 そん時は私はまあ委員の中の末席を(けがして?)おったんです。私がもう本当に一生懸命皆さんに言うたんです。「どうでしょうかお互いがどうでも着るものを一枚づつ、減らす気になったら、こりゃ出来ますよ。」と、いうて私が申しました。「そりゃそうじゃろばってん」、ちゅうごたるこって受け付けられんかったんです。あの時分は衣料がねえ大変この古着が高い時分でした。
 木綿物なんかというたら純綿というて、大変高い時分でした。私どもはそれこそわずかばかり持ってきているその着物でもはずそうかという気になって、皆さんに諮ったんですけれども、それが受け入れられなかった。そこで私は考えた、もうその日から考えた。こりゃもう私が、本気でおかげ頂こうと、そんくらいの金は私が一人でおかげ頂こうと、こう思うた。
 それから一生懸命、様々な商売をさせて頂きました。ほんとにその利益の全部がそのお供えだというわけなんです。所が大変順調のようであって、順調でないですね、どんどん売れよるかと思うとひっかかる。と言った様な例えば一年間あるのにですね、もうやんがて、もうあとひと月すれば御大祭という月になるまで、本当の事が出来なかったですね。いやとうとう私は分からなくなった。
 その事が神様も神様と、私がこれだけ一生懸命の真心を持って思いよるとに、神様がこれを受けて下さらんと言う事は、どうもおかしいという風に感じる様になった。だからそれをですねそのままほっちゃいけんと分かる所まで、求道していかなければいけないと。ね、そしてある事が分からして頂いた。分からして頂いたらさあ10ヶ月分売れなかったものが、一月でバタバターと出来たんですから。うん。
 これはまあその10ヶ月私が分からない、分からないと分からない分からないで求め続けた、そして成程おかげの頂けんはずだというものが、私の心の中にあった。それが分かった時におかげ頂いた。今日のその方の場合もそんな感じが致しますですねえ。この品物が売れた、もう元金自分で作るのだから、ね。元手ちいうものはもう僅かしか、かかっとらんのだからこの全部をです。
 御造営費に当てようと思ったら、もう思うたときからこれが全然売れなくなった。注文もなくなったち。そこで秋永先生にそのう『こんな訳でですが』というて尋ねた。そしたらあそこの奥さんがいわっしゃった。○○さんあんたがそげなケチな考えをもっとるけんくさ、たったそんくらいの事でどげんすんのち(笑い)ほんにそうじゃったち言うて、分かったちいうて話しておられました。ね、
 それでいっちょ幾らづつするかは、知らんけれどもひとつなんかは、千五百円なら千五百円ぐらいの物らしいんですね、それがあんた百売ったちゃ幾らのち、それだけ売ったちゃいかんのちいうて、秋永の奥さんに言われてから、気が付かせて頂くものが、あったというておられる。ね、ある方は今度のこの事はです、とにかく収入の全部をご造営費にと思うたら、もうそれこそたまがるような、お繰り合わせを頂いたというお届けもあった。愈々分からなくなった、分からなくなると言う事は。
 信心を進めておってもです、分からなくなる。分からなくなったら私はそれを求めに求めぬかなければいけない。私はそれを10ヶ月間求め抜いた。様々な修行して求めぬいた。分からなかった。安易な気持ちじゃいかんかというてです。まあもう一つの例のようにですね、このことがおかげ頂いたら、この事の全部が神様の御造営費にお供えさして頂こうと思うたら、それがもう思わぬ以上の、好成績でおかげを頂いたとこう言う様な、例もある。
 おんなじような事ですけれどもね、だから神様も分からんと言う事になるんじゃないでしょうかね。けど皆さんもです様々な事でです、分からんと言う事があろう時には、分からんなら初めにゃあいけません。求めてこなけりゃいけません。ね。そして求めて私は答えが出る場合もありゃ、答えは頂いたけれどもそれでもまだ分からんと言う事があります。自分のものにならないと言う事があります。
 身をもって心を持ってそれを分からしてもらうとき、私の心の中が開けてくる、と言う事は、おかげの道が開けてくるのですから楽しみでしょうが。今日はまたある方がこう言う様な事をお伺いなさった。愈々分からんごつなった。ほんとにもう思えば楽しい事ではある。こうして分からん問題が出て来る事は。今日でも本当に神様、分からんとこういわれる。そして私心願に頂く事はですね、山にね高い山なんです。雲がかかっている山に。そし、丁度その人がです、その丁度雲が掛っておる所を、通っておるどこだか分からない、だからこんときは神様はですね、もうほっときゃいいとい言う訳なんです。さあさあしっかと、信心を勧めて行けと。ね。山の途中に雲が掛っておるので御座いますから、ここん所を通っている所は分からん。
 いうならば信心が高度な所に成って来るから、分からんのだと言う事。だからその事だけを私しは申しました。自分の信心がそう言う様な事に取り組んで分からんというておるのだから、信心の貴方の信心の進んだ証拠なんだ。その事をお礼申しあげて、まあ一段進むことだなあと私は申しました。まあ一段進まなん雲が掛ったらお互いがね、あの事だけはどうも私は解らんと、椛目のお広前で例えば、ああ言う事がありよる。
 ああ言う事をいわっしゃる。そりゃどうも私は分からん。所がその解らんと言う所は、皆さん、そのときわからにゃ先生に尋ねにゃいかん。改めてその事をしてみるがいい。ご神意を頂だいてみてです、ご神意を頂いてみて、それでも分からんならばです。自分の信心がそこまで、まっ高度になっておることを、まずお礼を申し上げて、一段と信心を進めていければです、ようは雲のかかってない、もう一つの上の所に、行くと心の中にこうだったと言う事が分かってくる。
 だから信心というものは、そんなに限りがないもの。ね。信心がですもう誰でも分かる。ゆうなら拝みさえすればよかっちゃきと言う事は、まあ分かるけれども、お道の信心はそうじゃないのですからねえ。それだけに自分の心が段々段々高められてくるわけなんです。ね。自分の心が高尚になってくるんです。高度になってくるんです。だからおかげもまた高められる。おかげもまたそこから開けてくる。分かっただけ開けてくる。分かった自分のものになったと、そこからおかげの世界がです。
 限りなく広がって行くのです。ね、こげなと聞いちゃおかしい、と言う様な事言わずにです、聞かないけません。今日高柴さんが今日秋永先生が見えておりました丁度昼。これ、出会ってからのはなしですが、ある方が「椛目で今度御造営が、何千万という計画であるそうな。大体椛目にそげな金があるとですか」ち。まあ私しゃああそこに毎日お参りして、別に役になっとるわけじゃない。
 けどあそこにこう実行委員のとこに書き連ねてあるが、「私はもうそれが心配でたまらん」ちいわっしゃった。大体そげな無謀な事を計画してよかとですか」ち、総代の高柴さんに聞いてきたち。ね、そしたら秋永先生が非常にその事に感激しておりましたです。「うれしか」ち「椛目にそげな人がおると言う事は、有難い」というておりましたよ。「ほう、何千万大体でくるじゃろうか」ち思うただけじゃいかんです。本当にその事をです、ほんとこれが出けるとですかと、ね「何かその計画があるとですか」と。
 例えばその聞いてきたと言う事を聞いて、秋永先生がですそう言う事を質問して頂く人が、椛目にもあると言う事をです。有難い。又言うならばですとてもお前の所は、そげな事は難しいですよと、いうて反対でもしてくる人があるならば、尚有難いというておりました。ただです出来もせんな、ただ「ああ、ほうほう」というてからついて行くだけではつまらんということ。
 分からんなりにね、それぞれに一つ確信というものを持って、進めなければならんので御座いますから、分からん所があったら、ね、質問させてもろうて分かっていかにゃいけん。質問しても尚且つ解らんならば、愈々そこをほうからかさずに、信心修行さして頂いて。例えば私がです。ね、40年の親教会の記念祭と言う事に対して、一生懸命のその一生懸命の思いをもって、新て頂いておるにも拘らず、神様がおかげを見せて下さらない。分からなくなった。
 というてそれをほたらかしにせずに、一生懸命にああでもなかろうか、こうでもなかろうかとギリギリの修行をさせて頂いて、本然として分からせて頂く事があった。はあ成程「これじゃおかげにならん」というものを自分で発見した。10ヶ月どうにも出来なかったその問題がです。ね、ほんのひと月の間に、解決のおかげを頂いて、私が一番初めに願うた通りのおかげを頂けたんですからね。
 だから本当に信心の稽古と言う事は、矢張り分からん分からんと言う事が、何時もなからんといかんと思う。ね、そしてその分からん所を、分かろうと努める私しはここを求道心というのじゃなかろうかと、ね、道を求める心。しかも道を求めりゃ求めるほど必ず神様は与えて下さる。ね、自分の心の中に一段と心の開きが出来るときにです。おかげの飛躍までその伴うておる所に、お道の信心は楽しみがあるんですね。
   おかげ頂かねばいけません。